同じ名前の人にたまたま遭遇することだってある

4、5年前、アバンギルドでばきりのライブがあった日。アバンギルドで到着したわたしにラスから「今日のライブ、ガッキー自分の名前で予約してないやんなー。」と問われた。自分の名前で自分のライブを予約する。。なんてことは、さすがにトンチンカンなわたしでもしない、、。開場時間まで謎のみゆき、みゆきさんを待つまで、緊張しつつ、そわそわしていた。小さい頃、ドッペルゲンガーが流行った。自分と同じ自分に会うと死ぬ!とか思い出した。ずっとそわそわしていたのだが、ライブ前に話かけてくれた女性がみゆきさん。同姓同名で結婚後、苗字が変わり、同じ名前になったそう。フェイスブックで同じ名前の私がいることを知り気になって、ライブを観に来てくれたとのことだった。確か大学の院生だった気がする、、私とは全然違って落ち着いた知的な雰囲気を持つ女性だった。

 

「森へ行きましょう」川上弘美

心斎橋パルコでゲットしたオープン記念の特典1000Pで買った小説。本屋さんへずんずん進み、何かよい本はないかと、さほど広くない店内をぐるぐるすること3周。3周目に浜田真理子の帯文が目にとまった。解説も書いている。自分の中でmariko の音楽が流れ出す。これしかない、と会計に進んだ。同じ時代に生まれた「ルツ」「留津」さんが主軸でありながら、途中で違う「るつ」さんたちも登場する。生まれてから六十歳までの彼女たちの物語。同じ時間の中で違う時をすごす「ルツ」さんと「留津」さんの歩んでいく道は対照的、家族構成は全く同じで、でも囲まれている環境が違う。パラレルワールドみたい。友だちや恋人、知人も少しづつ重なり合いつつ、交わりそうで交わらない不思議な世界。この本はいろんな年代の女性が読んでもすごく突き刺さってくるような本だ。その年代に合わせて、あぁーわかる、わかるのうなづく共感や、もちろん、これは私とは全然違うもあって。こんなに複層的に、あの日、あの時、選んだ道、選ばなかった道があったとしたら、、こういう人生があって、違う時空でそれを選択した自分がそこにいるのかもしれないし、いないかもしれないの間を想像してみる。

 

「世紀の光」アピチャッポン・ウィーラセタクン監督

なんとなく見たい映画を探していたところ、この「世紀の光」に辿り着いた。予備知識ゼロ。何か良さそうな雰囲気だけが漂っている。勘だけで選び、十三で友だちと観た。

前半が緑の多い、ほのぼのとした地方の病院が舞台でのんびりとした空気につられて、ちょっと眠ってしまった。後半になると都市的な、どちらかと言えば、閉鎖的な空気が漂う現代の病院が舞台になった。登場する人物は同じで、物語も同じ内容が繰り返される。前半のほのぼのとした、のんびりした、みんながゆっくり生きているような情景がとてもよくて。その分、後半の息が詰まりそう真っ白の空間で隙間のない設備。真っ黒なダクトに引き込まれそうなあの時間が一番怖かった。エンディングは、軽快な音楽とともにみんなが踊っているシーンで終わる。このバランスが最高で、抜けとどこかずっと漂っている時間感覚やタイの言葉も柔らかくて耳に心地よかった。

 

「猫がこなくなった」保坂和志

電子書籍版で購入。短編の「夜明けまでの夜」を仕事帰りの電車内で読んだ。知人たちが弱っていた子猫を見つけて助けようとするお話。後半につれ、その熱量に動かされて、猫が生きること、保坂さんの言葉に突き動かされて泣きそうになる。その時、難波〜、難波〜と聞こえてはっとなり電車を慌てて降りた。頭の中はいっぱいいっぱいで、いつもの乗換えまでの道がぼんやりしていて、ふらふら歩く。言葉にうまく出来ない感覚がせまる。簡単な感傷とかではなく、全く別の心の動かされ方、並行時間をめぐる命の話に動かされる。まだ、うまく言えない。

 

最近、この三つの作品に触れて並行時間の、広大な宇宙のような、尊さのよりどころみたいな、全然違うところから見てみる寛容さ、いったりきたりして考えている。